右田病院100周年記念誌
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100年の歩み| 100年の歩み25医師会(現在の八王子市医師会)に入会し、医師会では若手医師として、同じく八王子市内で開業している医師たちと交流を深めました。同じ大横町には、市議会議員でもあり、医師会の会長をしていた水野成堅先生(南多摩郡医師会初代会長。兄は加藤高明第24代内閣総理大臣。のちに孫の水野明氏が興根昇の三女・たつ子と結婚)の営む水野医院がありました。水野医院は、のちに成堅先生の娘婿の四条龍作先生が継ぎますが、同氏は太平洋戦争に三度も招聘され、ついにフィリピンで戦死されました。四条先生のご子息・明氏は東京大学医学部を卒業し、興根昇の三女・たつ子と結婚。右田病院の診療を手伝い、晩年は理事として経営にも参画してくれました。松本家との関わり ~樺太と満州の父・常松の覚書~ 右田病院の2代目院長となる松本樺かばた太は、1905(明治38)年11月26日に興根昇と同郷である津和野の松本常松、きぬ夫妻の五男として誕生。津和野で暮らしていた家は、西周が暮らしていた家です。興根昇の実家、岡村家と隣り合わせていました。 樺太の父・常松(高知県出生)は陸軍砲兵工廠高等技師として、長く東京に在住していました。大正時代の初め、石いわみ見銀山再開発の仕事があると聞いて島根へ移りましたが、再開発の話が立ち消えたため、津和野に居住します。 常松が書き付けていた『備忘録』には、「大正10(1921)年3月6日樺太、日出(樺太の兄)と上京。右田家へ遣わす」とあります。このとき樺太は15歳。八王子の右田家に寄宿していたのか、ほかに寄宿していたのかは定かではありませんが、興根昇と同じ神田の錦城中学を出ています。 また、同じく常松の『備忘録』には「大正11(1922)年8月23日 満ます州、八王子へ 」とあります。樺太の姉・満州(のちに興根昇の後妻)は、樺太上京の翌年に八王子の右田家に入り、病弱なふさと二人の子供の面倒をみることになります。満州は、父の仕事の関係で東京は渋谷で暮らし、第三高等女学校(現在の駒場高校)へ入学。3年生のときに、家族で津和野へ移り、卒業したのは津和野高等女学校でした。多感な時期を東京で過ごした満州は、津和野にいても「東京へ帰りたい」とこぼすことがありました。津和野で、興根昇の実家の隣に住んでいた縁が、樺太を呼び寄せ、満州を呼び寄せたことにつながったのでしょうか。満州は高等女学校卒で高学歴の女性でしたから、あるいは、右田家の子供のしつけや教育を任されていたのかもしれません。ふさの逝去と満州との再婚 1923(大正12)年9月1日の関東大震災は、横浜や東京都心を揺るがし、八王子にも大きな被害をもたらします。正午近くに起きた地震で家々は激しく揺れ、立ってバランスを取るのも難しいほどだったのです。 右田家には、病に伏せるふさと、3歳の長女・弘子、まだ1歳の乳飲み子だった長男・健次の世話をする満州がいました。その大きな揺れが起きた瞬間、満州は電球などが落ちて幼子がケガをしないようにと、子供たちに覆いかぶさります。子供たちは無事でした。八王子市内は明治30年の大火ののち、土蔵が多く建てられていましたが、この地震で土蔵の壁土が落ち、町中は土煙が舞う惨状となりました。 満州の働きぶりと子供たちへの献身を身近で見ていたふさは、自分の命が長くないことを悟り、満州にこう伝えました。 「二人の子供のことを頼みます。気難しい夫のことも頼みます」 震災後しばらくして、ふさは亡くなり、翌年の5月、興根昇は満州と再婚しました。八王子町市街八日町通(明治末から大正初めのころ 絵葉書)興根昇と満州の結婚式

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