右田病院100周年記念誌
11/40

100年の歩み100年の歩み |26義弟になった樺太に「医者になれ」と説く中学卒業後、松本樺太は印刷工場で印刷工をしていましたが、興根昇から「医者になれ」と説かれたのです。そこから樺太は東京医学専門学校(現在の東京医科大学)へ進学。1929(昭和4)年に卒業し、東京帝国大学(現在の東京大学)医学部整形外科教室に入局して整形外科の技術を学び、その後、日本医科大学にて医学博士の学位を受けています。興根昇が医師への道へと導き支援したのは、義理の弟となった樺太だけではありません。島根県鹿足郡柿木村(現在の津和野町)木部谷の沖田氏に嫁いだ実の姉・つねの二人の息子たちのことも気にかけていました。つねは早くに夫を亡くしていたため、興根昇は甥たちの面倒をみようと思っていたのです。この二人は、共に勉学に精を出します。その結果、長男・喬平は九州帝国大学(現在の九州大学)医学部へ、次男・桂治は興根昇に呼ばれて東京に出てきて、立川の府立二中から東北帝国大学(現在の東北大学)医学部へ進学。甥たちも医師への道を歩んだのです。桂治はのちに、満州と樺太の妹・祥子と結婚しています。 興根昇は、自分が多くの人の世話を受けて医師になったことに感謝し、同じように苦学する者にはできる限り援助をして、未来を開きたいと願ったのでしょう。「人を育てる」ことは興根昇の揺るぎない信条でもありました。これ以降も多くの子弟を応援していくのです。大横町から本町への移転 開業以来、地元の信頼を深めていた右田醫院は、1927(昭和2)年に、本町に新しい建物を建設し、大横町から移転します。宿場町の名残をとどめていた甲州街道から一本北を並行して通る道に面した旧市街地の中心部。商工会議所に隣接していました。 病院の前に掲げられた看板には、ぢ病、皮膚病、花柳病(現在の性感染病)と診療科目が掲げられ、医師として右田興根昇のほか、医学博士名古屋長蔵先生、医学士佐々木敬としお夫先生、医学士松本樺太の名前が見えます。 当時の新聞には「八王子市民が有つ大きな誇り 右田医院が落成する」という見出しに、副題として「設備も医員も東京に劣らぬ」として添えられ、こう書かれています。「(前略)東京に於ける専門病院に一歩も譲らない施設があるから患者に取っては一大福音と云うことが出来よう。(後略)」 さらに新聞記事では新任予定の医師の紹介もしています。「永らく東京帝国大学医科大学皮膚科の医局に在勤して研鑽怠りなかった医学士佐々木敬夫氏が近日中に帝大を辞し右田医院主となって専心診察に盡すと云ふから設備に於いても医員に於いても少しも間然する所がない。 佐々木医学士は右田氏の令弟で温厚にして篤学の人であって帝大皮膚科に在っても重きをなしていたのである。此人が右田医院の院主として専ら診察に従事する事は右田氏に取っても心強い所であろうと思われると共に患者側に取っても心強い限りである。」 佐々木敬夫先生は、興根昇の義弟である樺太の義理の兄にあたります。草創期の右田医院にとって心強い存在でした。地元の期待を一身に背負って、右田病院は新たな一歩を踏み出したのでした。 翌1928(昭和3)年4月の山陰朝日新聞にも紹介記事が掲載されていました。 そこには「津和野が生んだ成功者」として、興根昇が次のように紹介されています。「東京府八王子市に前述の病院を経営し羨望の的となっている。氏は幼少の時の体験上学生養成に趣味関東大震災で破壊された八王子織物同業組合

元のページ  ../index.html#11

このブックを見る