100年の歩み| 100年の歩み27を有し、義弟佐々木敬夫君は大正十三年 帝大医学部皮膚科研究しつつありその他医科大学専門学校等九名の子弟を養成しつつある。」近代化された設備を整えた右田病院へ 八王子の町には、1929(昭和4)年に「チンチン電車」の愛称で親しまれた路面電車の武蔵中央電気鉄道が開通(昭和14年廃止)。上下水道やガスなどが敷設されたのもこのころです。中心部にはカフェや洋食屋といった店が並び、近代的な都市としての様相を整えていました。 皮膚科、泌尿器科の診療所として広く知られていた右田医院でしたが、興根昇自身は「八王子市には完全な病院がない」との思いを抱いていました。そこで、市民のためにも、自らの手で新たな病院を作り出そうとしたのです。 1932(昭和7)年日本は、関東軍が満州国建国を宣言し、翌年に国際連盟を脱退するなどして、国際社会から孤立し、次第に戦時色を強めていました。 そんな中、1933(昭和8)年11月には、病棟や諸施設を増設し、各科の専門医師を招いて、外科、整形外科、産婦人科、皮膚泌尿科、レントゲン科、理学療法科を有する病院として名乗りをあげるのです。 施設としては手術室、病室共に設備を整え、医療機械においても最新式のものを集めました。X線一般撮影機、X線透視撮影機を備え、外科医だけでなく整形外科の専門医も配して院内体制を充実させます。当時の多摩地区では新しい医療施設の誕生でした。名前も「医院」から「病院」へ改め、興根昇が初代院長に就任します。こうして今に続く外科系に強い右田病院の基礎ができていくのです。 1935(昭和10) 年ころは、初診料はおよそ50銭(映画館の入場料=昭和8年で50銭 )。当時の診察料は地元の医師会規定もあったのですが、患者さんの懐具合次第で、「まけてください」と言われて安くしてしまうということも多々ありました。 興根昇は、医療活動だけでなく、1937(昭和12)年には八王子市議会議員選挙に当選し、1942(昭和17)年まで市議会議員としても活動します。 立川市曙町に分院を開設 大正時代末期の立川町(現在の立川市)は、立川飛行場(現在の国営昭和記念公園)も開設され、急速に発展し人口を増やしていました。1926(昭和元)年になると、興根昇は立川町(現在の立川市曙町)に右田病院の分院として皮膚科、泌尿器科の夜間診療所を開きます。 その後、 1939(昭和14)年の秋には、立川駅の北口にあった診療所を閉めて、南口に50床を持つ右田病院分院を設立します。内科医になった沖田喬平、外科医になった沖田桂治を迎え、いずれは甥であるこの二人に分院を任せようと、興根昇は考えたのです。 立川には陸軍飛行場を中心として多くの軍事施設があり、民間の飛行機製作所などの軍需工場も数多く建てられていました。1937(昭和12)年に日中戦争が勃発し、戦時の緊張が漂う中、時代は戦争へと向かいます。そして1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が始まったのです。 翌年3月には早くも八王子に空襲警報が出ています。立川も多数の軍需工場があるため空襲の標的になる恐れがありました。1944(昭和19)年夏には、市内で大規模な建物疎開が実行されます。空襲による火災の延焼を防ぐべく、建物を取り壊して緩衝空近代的な設備を整えた病院に本町移転当時の右田医院
元のページ ../index.html#12