100年の歩み100年の歩み |28間を作るためでした。立川では400戸余りの家屋が取り壊しの対象となったのです。 1945(昭和20)年になると立川は2月以降、13回にも及ぶ空襲を受け、多くの被害を出しています。さらに医師や職員の召集も続き、7月になると分院は閉院を余儀なくされ、残った職員は八王子の本院へ引き上げ、医師の沖田兄弟は故郷の島根へと戻って行きました。戦時中は、召集で医師や職員が足りなくなり、休業、閉院せざるを得ない医院もたくさん出ています。八王子の水野医院では、院長に召集がかかり、職員を「右田病院へお預けした」という記録もあります。水野医院は水野成堅先生の娘と結婚した四条龍作先生が院長をしていましたが、龍作氏は3度にわたり、招集されることになります。最後の出征前には右田病院の興根昇のもとへ挨拶に訪れましたが、残念なことに1945(昭和20)年7月、フィリピンで戦死されました。戦時下での本院・分院 分院は終戦のひと月前には閉院しましたが、八王子の本院は人手不足や医療品不足と闘いながらも診療を続けていました。戦時下においても右田病院では医師の招聘を行っていました。1941(昭和16)年には、院長の興根昇が卒業した東北帝国大学医学部の同窓で、盛岡市の病院で外科部長として活躍されていた小田倬三先生を、常勤の外科医として迎えています。 1942(昭和17)年7月、高尾山ケーブルカーで事故が発生。ケーブルの腐食が原因で破断し、ケーブルカーが暴走して転落したのです。3名が亡くなり、80名余りが重傷を負う大惨事でした。負傷者の多くが右田病院へ運ばれ、十分な医療品のない中で懸命な治療が行われます。戦時下においても救急の要請にどうにかして応えようとしていました。 1943(昭和18)年6月には、東京府医師会八王子南多摩支部の支部常会で、松本樺太が「防空救援について」の講演を行いました。戦争が激しくなると医師会でも戦時救護班を結成したのです。空襲警報が鳴り響くと病院での診療を止めて、たとえ夜間、真夜中であってもすぐに防空服に身を包み、鉄製の兜をかぶって医師会館や警察の防空壕に詰めたのでした。 1945(昭和20)年、3月9日の東京大空襲以後、八王子市内、周辺部にも爆弾が落とされています。戦況はますます悪化し、食料や衣料品は配給制になり、人々は精神的にも疲弊していました。空襲に備えて避難するための防空壕もあちこちに掘られました。右田病院でも防空壕を掘って医療材料等を避難させ、もしもの場合に備えたのです。興根昇の故郷の山陰朝日新聞(昭和3年4月28日掲載)1930(昭和5)年、横山町米谷呉服店屋上より市電が走る八日町八幡町方面を望む1937(昭和12)年、上空より見た八王子の市街地
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