100年の歩み| 100年の歩み29八王子大空襲に遭う 1945(昭和20)年7月31日と8月1日には、米軍機が伝でんたん単と呼ばれるビラを播き、近日の空襲を知らせていました。 空襲警報が発令されると、病院では入院患者を安全な場所に運び出さなければなりません。8月1日の夜、空襲の報を受け、軽傷の患者はできるだけ退院させていましたが、数名の患者が入院したままでした。 右田病院の防空壕はそれほど大きくなかったため、患者を担架に乗せ、近くの八幡八雲神社へ運び、境内の防空壕に避難させました。その後空襲が一旦解除になったため、病院へ連れ戻しましたが、数時間後の2日夜半にB29の編隊169機の爆撃が始まります。八王子駅方面に火の手が見えたため、再度患者を神社の防空壕へと運んだのです。 このときの爆撃によって、八王子は市街地の約8割が焼失しました。夜が明けると町はすっかり焦土と化していましたが、幸いなことに神社の防空壕は無事で、病院の職員は患者さんと涙の再会を果たしたのです。 市街地の中心部にあった右田病院は跡形も無く焼け落ちてしまいました。しかし、右田病院の職員と右田家の家族は全員助かりました。 焼け野原となった町には、ケガや火傷などを負った重軽傷者が大勢さまよい、一刻でも早く医師の診察を受けたい、治療をして欲しいという人であふれていました。防空壕に移しておいた薬品等は無事でした。次にかろうじて焼け残った土蔵にしまっておいたリンゲル液、医薬品、石鹸などを取り出そうとしました。 当時15歳だった興根昇の三男・徹(第3代院長)は、空襲の翌日に短いハシゴを継いで土蔵の屋根に登ると焼夷弾が貫通した穴を見つけました。焼夷弾が蔵の中に飛び込んでいれば内部で発火する恐れがあります。そうなると扉を開けた途端に、空気が入って一気に蔵が燃え上がってしまうかもしれません。 八王子消防署に連絡し、消火を依頼する一方、徹は父の指示により隙間という隙間を練り石鹸で埋めて酸素の供給を遮断する窒息消火を試みました。消防車も空襲で焼かれ、市内には何台もない状況でしたが、「貴重な医薬品を救い出すために」と派遣してもらうことができたのです。消防車から放水し、蔵全体を十分に冷やしてから扉を開けると、内部は燃えることなく、医薬品等はそのまま使用できる状態にありました。終戦を迎え復興へ向かう 空襲によって市街地の医療機関もほとんど焼き尽くされてしまいます。米軍の攻撃は続き、同年8月5日にも戦闘機のP51が襲来。動き始めた中央本線を銃撃し、多数の死傷者を出します。日本機械診療所には右田病院の医師と看護婦が診療に当たった記録が残っています。 そのような状況下、右田病院では警察からの要請もあり、戦災後、すぐに焼け跡にバラックを建てて診療を開始します。手の施しようのない破傷風患者が多く、診療は困難を極めました。軍部から補給される医薬品には限りがあったからです。 8月15日、ラジオから玉音放送が流れ、日本は敗戦し、戦争は終結しました。 右田病院が診療を再開して間もない8月24日には、八高線で列車の正面衝突事故(八高線転覆事故=小宮~拝島間)が起きます。死者100余名の大甲州街道八日町佐藤ビル(現・八王子スカイホテル)から西方向を望む 1945(昭和20)年9月
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