右田病院100周年記念誌
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100年の歩み100年の歩み |30惨事でした。このときも重軽傷者が大挙して運ばれて来て、医療設備も整っていない中、できる限りの治療を試みたのです。 興根昇は1日も早く病院施設を整えなければと、立川で解体された建物の資材を手に入れ、八王子へと運びました。そして焼け跡となった病院敷地裏にどうにか建物を建てたのです。1945(昭和20)年11月には海軍厚木航空隊が残した資材も入手でき、外来、手術室、X線撮影室の設備を整え、本格的な診療が再開します。 戦後間もない時代は、生活物資の不足やインフレによって人々の生活が脅かされていました。八王子では駅前の広場や三崎町通り、八幡八雲神社境内やその周辺道路にヤミ市(露店)が立ち、その数200~250軒と言われました。人々は栄養不足で、健康保持はおろか病気の治療もままならない状況です。そんな中、右田病院は、日々、目の前の患者さんと向き合っていました。地域で頼りにされる救急の病院 1947(昭和22)年2月には、またしても八高線で転覆転落事故(東飯能~高麗川間 死者184名)が起こります。当時は医療機関も少なく、重軽傷者が大挙して来院し収容されました。こうして非常時の医療活動に加わり、誠意を尽くす医師や看護婦の姿を見てきた地域の方々から「何かあったら右田さん」という厚い信頼を得てきたのです。 戦前戦後の混乱期、救急医療を受け入れる先は多くはありません。右田病院は救急医療機関として、八王子地域の救急医療の半数以上を請け負っており、神奈川県や山梨県など近郊地域の重症患者までもが搬送されてきたのでした。車はまだ少なく、リヤカーに乗せられた病人も数多く運び込まれてきました。 1950(昭和25)年になると内科を開設します。同年発行『八王子市勢要覧』には「市内の医院は48 、病院は4、歯科は38の合計90軒」とありますが、この4つの病院のひとつが右田病院です。興根昇の日記から 興根昇が残した日記が残っています。それは満60歳から亡くなる前の年までの日記です。ちょうど八王子の町も戦後の復興を遂げ、戦災で打撃を受けていた伝統産業の織物業も、飛躍的に生産が伸びる時代を迎えたころです。1950(昭和25)年に始まった朝鮮戦争によって、いわゆる朝鮮特需が生まれ町も活気づいていました。 日記には、誰が来たか、どこへ行ったかなど、その日にあった出来事を箇条書きにして記してあり、病院経営についても触れています。 1950(昭和25)年に医療法人制度が施行されたことにより、右田病院は1952(昭和27)年に医療法人財団興和会を設立し、法人化を遂げました。•1952年7月11日 「上京 都医師会医療法 人許可認可附さる」 医師の確保にも努めていたことがわかります。ほんの一部の抜粋ですが以下の記述です。•1951年6月15日「慈恵大廿五年卒業 蔵並定男先生雇用することとす 食事付き2千円」•1952年4月13日「浜松より鈴木先生着任 皮膚科」•1952年4月18日「外科 小田蒂蔵先生決定 助教授本田先生紹介」•1952年12月10日「佐々木三雄医師 内科着任」•1955年4月12日「菊地看護婦(医科歯科大学)見参す 下旬赴任の予定」•1955年5月1日「鈴木先生内科後任の件、仙台へ電話す」•1955年5月8日「山田博士来る4万5000 最低手取りとす 一ヶ月以内着任」 興根昇が50代のころ綴った日記看護婦さんたちに囲まれて(中央 興根昇院長)

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