右田病院100周年記念誌
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100年の歩み| 100年の歩み31 さらに、子供たちの進路が見えて来た時期でもあり、独立、結婚が続くころでもありました。•1949年「次女の多加子が後藤一成氏(三菱鉱業勤務。のちに興和会理事)に嫁ぐ」 この年は、長男・健次も独立して神田鍛冶町に診療所を構えます。•1952年3月17日「徹 東大合格の報告あり。嬉しい事 萬才」•1953年4月12日「昭 成蹊高等学校入学式 」•1955年5月6日「東条会館 裕・貞子結婚式 来賓61名盛会 翌日 第二次結婚披露」•1955年11月5日「たつ子荷物運び水野家へ」 11月11日「たつ子結婚式」(日記部分、原文ママ) こうして慶事も続きましたが、興根昇は自身の体調にはあまり自信が持てずにいました。あまりにも急な最期 日記には1954(昭和29)年の元旦に「六十七歳満六十五歳二ヶ月 節酒節煙健康を注意せん」、4月5日には「どうしても節酒節煙しなければならぬ 昼止、夜二本、しんせい1日1ケ」と自分を戒める言葉を綴ります。12月になると「疲労で診察を休む」「血圧が170以上となりフラフラする」という記述が。翌1955(昭和30)年の5月になると「明日から3、4ヶ月静養」と書いています。 また、「八杉家、来る」「妻 八杉家へ」という文字も多く見られ、興根昇が学生時代に寄宿してお世話になったロシア語学者八杉貞利氏の一家への恩を忘れず、親しく交流していたことが伺われます。三女のたつ子も八杉家に寄宿して高等女学校に通ったのでした。 このころの八王子では、1954(昭和29)年に横山町の甲州街道沿いに約1キロに及ぶアーケードが完成。商店街は賑わいを取り戻し、戦後の復興を印象付けていきました。  1956(昭和31)年2月、三男・徹の東大医学部卒業が決まったとの連絡を受け、夜、自宅で祝杯をあげた興根昇は、その席で脳梗塞を起こしてしまうのです。それからわずか1週間で帰らぬ人となりました。享年69。あまりにも急な最期でした。 八杉貞利氏は、歌集『ろしや酒』(1965年)に、「たえだえの 息のうごきにくちびるの ゆるるを見ればいよいよ 悲しき」「いく年月 ありしことごと 想出でて 君がいまはの 床にはんべる」 と、興根昇の臨終を詠んでいます。自宅でくつろぐ晩年の興根昇と満州晩年の八杉貞利

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