右田病院100周年記念誌
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100年の歩み100年の歩み |32 東京府立第四新制高等女学校(現在の都立南多摩高等学校)に進学して、最初にできた友達が山下貞子さん。醤油などを扱う八王子の大きな問屋さんの娘さんです。よく貞子さんの自転車の後ろに乗せてもらい、あちこち出かけたものでした。私はその後、お茶の水女子大学の付属へと進み、父が若いころ寄宿していたロシア語学者・八杉貞利氏の家にお世話になりました。貞子さんは、日本女子大学に進んで栄養学を学んでいました。そして貞子さんは大学を卒業前に婚約。それが私の兄(右田裕・第3代理事長)です。学校を卒業して間もない5月に結婚。友達が兄嫁となり、家族となったのです。 兄・裕と共に、昭和30年から40年代の右田病院を支えてくれました。  私も大学を卒業した年の秋に結婚しました。お相手は水野明。父が八王子で開業したころ(大正6年ころ)にはすでに八王子地区の医師会会長を務めていた医師・水野成堅の孫です。明の父は元々軍医だった四条龍作。大横町の水野医院を継ぎ、父と懇意にしていました。しかし時代は戦争の真っ只中です。数回に及ぶ召集を受け、最後はフィリピンのルソン島にて亡くなりました。明は、東京大学第二工学部造兵科へ入学していましたが、終戦に伴い造兵科が廃止されるとのことで転科を余儀なくされ、医師になるべく医学部に転向したのです。父親(龍作)を失った明のことを、私の父・興根昇は気にかけ、学費などの援助をしたようです。 明は東京大学医学部に長く籍を置いていましたが、定年間際に杏林大学医学部に移り、教授として学生を指導していました。そんな関係で、当時は右田病院には杏林大学医学部を出た医師も多く出入りしていたのです。コラム興根昇・次男の結婚、そして三女の結婚水野たつ子(昭和8年生。旧姓右田興根昇・三女)

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