右田病院100周年記念誌
18/40

100年の歩み| 100年の歩み33<要約> 岡村タツ子女史は、嘉永3年6月、美濃郡益田町に生まれ、明治元年19歳のとき、津和野藩士岡村平治に嫁した。明治5年、夫平治が眼病にかかり、資産の限りを投じて医療に尽くしたが、その効なく、神仏の加護に頼る他無しの状態となる。津和野廃藩の際、岡村家に賜った家禄は眼病医療に投じたものの、明治10年両眼失明。この悲運の中、女史は他家の田畑の仕事はもちろん、洗濯等に雇われ、身骨の砕けるほど汲々として労働を続けた。 不堯不屈、血みどろな苦闘を継続しつつ、明治12年に長男、16年に長女、21年に二男をもうけ、生活は益々苦しさを増す。 夫の扶養、子女の養育という粉骨砕身ぶりが藤川島根縣令のきくところとなり、褒賞状と金一封が届くが、明治26年、夫を看病する心労、貧困、子女の養育、過度の精神を悩まし続け、精神病を発症。14歳の長男を頭に、5人の家族は貧苦のどん底に陥った。幸いにも女史の精神病は1年で全快。 明治40年6月、大正天皇東宮のとき、山陰行啓に際し、御菓子の恩賜され、大正6年、西村島根縣知事巡視の際、金一封に添えて扇面を贈られ、婦道を全うしたことが世の中に伝わるようになった。 長男・實衞は町助役として、二男・興おきねのぼり根昇は津和野町の右田氏の養子となり医学を修め、東京府八王子(現本は八王寺)市に病院を開設。 女史は大正13年8月27日、75歳にして没した。資料島根縣青年學校教科書 女子巻一 郷土科第六課 岡村タツ子

元のページ  ../index.html#18

このブックを見る