右田病院100周年記念誌
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100年の歩み100年の歩み |34松本樺太の時代~高度成長期にも重なる30年間~初代の後を継ぐ、松本樺太の覚悟 初代院長興根昇の急逝は、家族、そして病院の関係者にとって大きな衝撃でした。しかし、右田病院を続けるため、すぐに次の院長を決めなければなりません。 1934(昭和9)年から右田病院に入り、常勤で診療を始めていた松本樺太は、整形外科医として、昭和20年代には興根昇の右腕となっていました。 昭和20年代の後半、興根昇は体調を崩し、数ヶ月も診療を休むことがありましたが、その間も八王子の町の人々から「何かあったら右田さん」と頼られる病院であり続けたのは樺太の尽力があったからでした。 戦後の混乱から抜け出したとはいえ、入院するのに、寝具等も患者自ら持ち込んでいた時代です。入院患者の多くは、家族と共にリヤカーに入院道具を乗せて、右田病院へやってきたのでした。 興根昇の長男・健次は、すでに神田鍛冶町で診療所を開いていました。次男の裕は日本医科大学を1952(昭和27)年に卒業。その後、母校の放射線科教室で研究を進めるかたわら、副院長として右田病院で診療をしていましたが、まだ20代でした。裕が大学を卒業し、放射線科に入局を希望した際、父・興根昇は「万が一放射線によるがんや白血病の恐れがあっては大変だ」と裕の体を心配し、放射線科へ進むことに難色を示しました。そして皮膚科へ進むようにと強く勧めたのですが、最後には裕の決意を受け止めて、日本放射線学会で活躍されていた山中太郎教授のもとへ「世話がやけるだろうけど、なんとかものにしてくれ」と、頼みに行ったというエピソードも残っています。 また、三男・徹は東京大学医学部を卒業したばかり。興根昇の意志を継いで、院長となる人物は樺太しかいませんでした。興根昇・次男の右田裕と共に 樺太は医学生のころ、興根昇に「これからは、ただの外科ではなく整形外科をやれ」と勧められていました。東京医学専門学校を卒業して、東京帝国大学の整形外科に籍を置いた時期もあります。その後、日本医科大学の医局に入局。右田病院で診察を開始してからも、週に1回は整形の教室に通い研鑽を積んできたのです。「手が小さく、手先が器用で外科手術が上手い」というのが周囲の樺太評です。盲腸の手術は本当にたくさん行いました。近隣の産科医から要請を受け、帝王切開の緊急手術を行い、右田病院で誕生した子供もいました。「今日はいい眉毛が作れた」と語っていたこともあるほどですから、形成外科のような手術も行っていたようです。 1963(昭和38)年発行『八王子市民春秋録』(市民の新聞社発行)には、「八王子実費診療の先駆を

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