100年の歩み| 100年の歩み35なした功労者は(故)右田先生である」という文に続いて、樺太のことを評した次のような一節があります。「外科にかけては、腕と度胸で、その手練のほどは、すでに定評ある名国手として知られている。(中略)肩書を貰うことや、鼓吹宣伝されることもお嫌いのようだ。(中略)お世辞も言わない。威張りもしない。それで、人をひきつける若い院長は、今日も明日もなく仕事に取り組むタフガイだ。」 一方、裕は1958(昭和33)年に城山右田医院を開設し、そちらでも診察を開始しています。 夫を亡くした満州は、実の弟が院長として病院を引き継いでくれたことに安堵し、非医師ながら第2代理事長として以後8年間、病院経営を担いました。病院にたびたび顔を出すわけではありませんでしたが、注射器1本にしても大切に使うようにと、無駄遣いをする職員を、ときには諌めることもあったのです。昭和前期の右田病院を支えた医師たち 1954(昭和29)年発行の『日本医籍録』には、右田興根昇院長を筆頭に松本樺太、谷口弘先生(東京大学医学部卒/内科)、岡部五成先生(日本医科大学卒/外科)、小田倬三先生(東北大学医学部卒/外科部長)、出構昭子先生(東邦女子医学専門学校卒)、方倉国臣先生(東京医科大学専門学校卒/皮泌科)、山田年比古先生(東京医科大学専門学校卒/外科)と、それぞれの医師の名前が見えます。 2年後には新しく右田裕(日本医科大学卒/副院長)、吉田正幸先生(東京医科大学専門学校卒/内科)といった医師の名前が記載されています。また、樺太の義兄にあたる東北大学医学部卒の佐々木敬夫先生も勤務し、一家で病院の近くに住んでいました。 こうした人材を揃え、より専門的に医療に取り組み始めていたのです。 そして、数年ののちには右田病院を巣立ち、八王子の町で、または地方で独立開業をした医師たちも何人もいました。同じ八王子市内に開業することで、勤務医時代からのパイプを活かしながら、個々の専門性を発揮して地域の役に立っていったのです。 1953 (昭和28) 年に「昭和の大合併」と呼ばれた町村合併促進法が施行され、八王子市はそれを受けて、1955(昭和30)年に周辺の6つの村と合併します。4年後には浅川町とも合併し、市域は6倍、人口は15万人を超え、多摩地区最大の都市になりました。看護婦不足に対応するため准看護学院の設立 戦後間もなく再建した木造の病棟は、患者数が増えるに従い、病床の増設の必要が迫ってきました。そこで1960(昭和35)年7月に 、従来の木造建築の一部を鉄筋コンクリート3階建てにする第1次増築工事が行われ、病床は 84床になりました。 1961(昭和36)年、国民皆保険体制が成立し、国民の間に健康保険制度が広がり始める年となりました。こうして保険医療制度が整うようになるにつれ、各地に病院が増えたため看護婦不足が深刻になったのです。 右田病院では、看護婦不足解消のため、准看護婦を養成する学校を作る計画が持ち上がります。陣頭指揮に当たったのは副院長の右田裕で、裕の妻・貞子も夫と共に学校設立に奔走しました。 貞子は日本女子大学で学び、栄養士の資格を持っており、普段から入院患者さんの食事作りを任されていました。右田家に嫁いだ嫁として家庭を切り盛りし、子育てをしながら、病院の仕事にも精を出す毎日。職員たちへの細やかな気遣いを忘れない貞子は、この時期の右田家と右田病院の潤滑油となっていたのです。 右田家は病棟のすぐそばで暮らしていましたが、その北側には八王子市役所(1983年、元本郷町へ移転)がありました。家族の食卓には、裕とは剣道仲間である市役所職員たちがよくやって来ては、語らっていたのです。そこでも准看護学校設立の相談をしていました。働きながら学んで資格を取りたいという向学心に燃えた看護の人材を育てる学校。そ2代目理事長として活躍した満州※2002年(平成14)年の「保健師助産師看護師法」改正から「看護師」という呼称に。本文ではそれ以前は当時の呼び方「看護婦」を用いています。
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