100年の歩み100年の歩み |36当時の八王子の人口はおよそ20万人、市内中心地には大型百貨店やスーパーマーケットが多数進出してにぎわいを創出していました。 この年は、院長の松本樺太、副院長の右田裕以下、田中次男先生(日本医科大学卒/外科)、豊田泰助先生(東北大学医学部卒/外科)、陳洋水先生(医長、日本医科大学卒/皮膚科・泌尿器科)、棒行忠先生(東京医科大学専門学校卒/皮膚科・泌尿器科)、水野明(東京大学医学部卒/外科、当時東京大学医学部第二外科講師。南多摩医師会初代会長・水野成堅氏の孫)、伊藤亭先生(日本医科大学卒/内科、日本医科大学内科医長)、山岸嘉彦先生(日本医科大学卒/放射線科、日本医科大学講師)が右田病院を支えています。 こうした陣容によって院内の医療体制は充実していきました。それに加え、昭和40年代には興根昇の甥で立川の分院を手伝っていた沖田喬平、桂治の息子たちが医師になり、大学の医局に所属しながらも右田病院を支えてくれていました。喬平の長男・瑛一と次男・琇二は内科。桂治の長男・旺治は外科で、次男・伸治は整形外科、三男・泰治は麻酔科でした。旺治はよく同じ東京医科大学医局の若手医師たちを呼んで、当直勤務を担当してもらいました。この時代、親戚である沖田家の人々にずいぶん助けてもらったのでした。その後、沖田家の兄弟たちは島根県浜田市、江津市で開業します。 東京オリンピック後、右田病院では交通事故の患者さんが増加していました。1966(昭和41)年におよそ230万台だった乗用車の保有車数が、1970(昭和45)年には、およそ727万台(一般社団法人自動車検査登録情報協会調べ)へと急激に伸びていたのです。道路の整備も行われましたが、いくつもの大きな幹線道路が市域を走るため、八王子では交通事故が多発したのです。 しかし、市内に病院の数は少なく、サイレンを鳴らす救急車が次々と右田病院へとやってくるような状況でした。「外科の右田」、「救急の右田」としての設立計画は、多くの賛同を得て進んでいったのです。 戦後間もなく古材を集めて建てられた右田病院の木造病棟は、細い道を挟んだ空き地に曳家され、准看護学院の教室へと役目を変えました。市役所からは使わなくなった古い机や椅子をもらい受け、裕らがリヤカーに乗せて教室へ運び込み、学校の体裁を整えたのです。 1962(昭和37)年、八王子准看護学院が運営を開始し、学院長は松本樺太院長が兼任しました。右田病院の医師たちも専門科目を指導し、貞子も栄養学を担当しました。市役所の職員で国語教員の免許を持っているものが国語の講師に就くなどして、准看護学院が始まり、八王子市内、近郊のみならず他県からも学生がやってきたのです。 翌1963(昭和38)年になると、裕は母・満州から理事長職を継ぎ、第3代理事長に就任します。交通事故多発の町で担ぎ込まれる患者さんたち 1964(昭和39)年に開催された東京オリンピックでは、八王子市内で自転車競技が行われました。東京オリンピックの聖火が通過する甲州街道 1964(昭和39)年10月八王子准看護学院の戴帽式にて。右は松本樺太学院長准看護学院へは市内だけでなく、他県からも学生がやってきた
元のページ ../index.html#21