100年の歩み| 100年の歩み37八王子の救急を引き受けている。そんな自覚が職員の中に芽生えていました。初代レリーフも完成、病院創立50周年 1969(昭和44)年、右田病院は病院創立50周年を迎え、記念式典を執り行います。 この日は有志の方々によって寄贈された初代右田興根昇のレリーフの除幕式もありました。晩年の故人の面影を再現したレリーフは、日本の彫刻界の第一人者である長谷川塊記先生の手により、彫られたものです。 理事長の右田裕は、あいさつの中で、「現在ようやく100ベッドを数える規模を持つ総合病院の形態を整え、年間治療患者数つとに10万人の多きに達する状況と相成りつつあります」と発言しています。 戦火によって焼失した病院を一から再興して24年。その間の医師、職員の日々の努力によってここまで来たことに感謝を新たにした一日でした。こうして右田病院は地域の人々の役に立てるよう総合病院としての機能を整えていったのです。 1970(昭和45)年3月には、第2次増築工事が行われました。3階建て病棟の上にもう1階増築し、病室を増やしました。 高度成長の結果、日本は国民総生産(GNP)が世界2位になり、「一億総中流社会」の到来を迎え、生活水準も向上していました。 裕は1967(昭和42)年に八王子市議会議員に当選し、1971(昭和46)4月まで務めました。 息子たちの活躍を喜ぶ母の心の内 50周年記念式典に前後して、おそらく満州が記載したと思われる文章が残っています。 「長男・健次は神田鍛冶町に診療所を構え活躍中。 次男・裕は城山に於いて医院を開設。 三男・徹は東大第二内科に研鑽。アメリカに留学。帰国後、同医局の助手となり、現在警察病院の内科医長。 四男・佐はたすく早稲田大学卒業後、右田病院の事務長を務める。 五男・昭は慈恵会医大を卒業。整形外科研究の傍ら、八王子の病院を手伝う。 尚、始終、松本樺太(現院長)が病院に勤務。今日迄の基礎を作った尽力多大である。」 夫亡き後の病院経営は、実の弟である松本樺太が引き受け、八王子の地において右田病院の地位を築いていました。それもありがたく、さらに息子たちがそれぞれ、父の後を慕うように医師になり、病院経営を助ける立場にいるのです。娘たちはそれぞれ結婚して家庭を築いています。こうして文字にすることによって、母親として立派に成長した子供たちの姿を再確認できたのです。 1971(昭和46)年、副院長を務めると共に、准看護学院成立の立役者でもあった裕は、理事長職を勇退し、城山の地で自身が開設した医院の仕事に専念することになります。院長の松本樺太は第4代理事長の職を兼任し、さらに医師としての活動だけでなく、様々な団体の役員をも引き受けるようになります。推挙され第10代八南医師会会長に就任。また八王子ロータリークラブで第10代会長(1968~1969)も務めるなど、多忙な日々を送っていました。50周年記念式典 にて初代院長右田興根昇のレリーフ現在の病院エントランスに飾られている第2次増築工事後に撮影した病院全景
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