右田病院100周年記念誌
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100年の歩み100年の歩み |38興根昇・四男の右田佐が理事長に その後、事務長として入職していた興根昇の四男・佐をリーダーに、長年の懸案だった近代的病院の建物にするべく第3次増築工事が計画されます。完成したのは、1974 (昭和49)年4月。鉄筋コンクリート地上4階、地下1階、エレベータ、全館冷暖房も整った病棟です。こうして近代的な医療諸施設への改善も進んでいったのです。 1975(昭和50)年、右田病院が運営していた八王子准看護学院は、八王子市に移管し八王子市立准看護学院(現在の八王子市立看護専門学校)となりました。 この年、佐が第5代理事長に就任します。佐は興根昇の5人の息子のうち、ただ一人医師の道を選ばずに文学の道に進んだ人物でした。早稲田大学を卒業後、大手書店に入社、その後右田病院へ入職しています。 病院の、昔ながらの家庭的な雰囲気を大切にする一方、「国の方針が変わろうと右田は右田だ」と言い切るような豪放さもあり、職員たちからも慕われる存在でした。 子供を保育園に預けることができずに、病院を辞めるしかないと思いつめた職員が相談した相手も佐でした。「じゃあ、寮に子供を預けられる部屋を作るよ」 病院には鉄筋4階建ての寄宿舎があり、そこには医師が家族と暮らす部屋や単身の看護婦の部屋がありました。その寄宿舎の1階をすぐに改装し託児所にしたのです。夜勤の看護婦も安心して子供を預けられるように、24時間体制。子供を持つ看護婦の働きやすさを考えてできた託児所でした。 佐が理事長になった翌年の1976(昭和51)年 10月、満州は亡き夫・興根昇の創設した右田病院が地域に根付いている姿を見届けて、息を引き取りました。五男三女の母として子育てを全うし、多忙を極める夫・興根昇の仕事を助けて、夫と共に右田病院を育てた立役者でした。 南多摩医師会の『創立60年記念特集号』1976( 昭和51)年には、樺太のコメントが掲載されています。「戦前戦後の病院施設は非常にルーズであったが、今は建築法も問題になりますし、防災関係に対する問題が非常に喧しく、防災設備がないといけません。数年前に総改築したときには、金がかかるのを非常に苦しい思いをしながら非常ベルや煙探知機などをやっと取り付けました。私立の病院ということで補助をしてくれるところはありません。 また医師の数は、常任がひとり少ないということで、何度も叱られるんですが、それでパートを雇わなければならないので、これがまた苦しい。常任の人を探しても、いい話があるとそちらへすぐ移ってしまいます。看護婦は若い娘さんが多いので結婚出産でやめていくため、非常に苦しいので看護学院を始めたのですが、何処からも補助がなくて、市に移管する1年前から多少補助をくれるようになりました。市に移管したら、今度は余計くれるらしいので、何だか馬鹿な話だと思うんです。 人件費(給与のこと)のことは、最近は何となく抵抗する傾向にあって、十分な話し合いをして今んとこはやっておるわけです。 健康保険法ほど不思議なものはないと、何度も技第3次増築工事完成披露パーティー第3次増築工事後の病院全景第5代理事長 右田佐

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