100年の歩み100年の歩み |42の東京大学医学部附属病院第二内科上田英雄教授の勧めで、アメリカ・メリーランド州ボルチモアにあるジョンズ・ホプキンス大学へ留学が決まります。妻・惠子と二人の幼子を伴っての渡米でした。派遣されたジョンズ・ホプキンス大学内科放射線科では、核医学のパイオニアの一人と言われ、のちに同大学の医学部及び公衆衛生学部の名誉教授、さらには米国核医学会会長、世界核医学・生物学会議会長も務めたヘンリーN.ワグナー助教授のもとで、研究生として研究や診療に従事します。 およそ4年間、新しい時代の先端の医療を身につけた徹は、帰国後、母校の東京大学医学部附属病院で内視鏡検査兼一般検査室長として勤務。その後、1969(昭和44)年には東京警察病院へ入職し、内科部長兼放射線科部長として、右田病院に入るまでの16年間を過ごしました。 右田病院院長に就任後、松本樺太の後任として八王子市医師会の理事に就任し、病院部会の立場で救急業務連絡協議会会長を担います。以降、地域の救急医療体制の充実に腐心することになります。 当時、東京都の二次救急体制は輪番制を敷いていました。八王子市内の休日夜間救急医療機関は7病院(当時)で、外科系・内科系を含む複数科を標榜。その中から3病院ずつ輪番で担当、内1病院が休日日中の収容施設として担当。以上の体制に対して東京都の助成事業が対象になっていました。 そして、平日夜間救急は、市内12救急病院(当時)が、毎日の当直医の専門科を記入した1か月の当直表を作成し、救急隊と情報共有して救急患者を搬送するものでした。 この体制で、市内に発生する夜間救急患者の約8割を市内救急医療機関で収容できていたのです。新看護体系取得で病床数が119床から91床へ 平成の年号に入ってから、日本の医療制度は来る高齢社会と社会保障費の財政負担への対応で、大きく変革の様相をたどります。1994(平成6)年の診療報酬改定は医療保険制度の改正と一体になった改定で、右田病院変革の大きなきっかけとなりました。 1995(平成7)年に新看護体系が導入されると、付き添い看護の禁止以上に正看護婦の人員体制の充足が求められました。医療法上の病床面積の制約もあって、右田病院は病床数が119床から91床に減床するなど、対応に苦慮するようになります。もともと、准看護学院を運営していたことで、看護の現場は准看護婦の活躍に支えられていましたが、看護職員の正看護婦比率が70%以上でないと上位の診療報酬施設基準が取得できないことが、経営に大きな影響を及ぼすようになります。正看護婦の資格を取るために進学しようと、病院を辞めていく准看護婦たちもいました。 当時、興根昇の三女・たつ子の夫の水野明は、東京大学医学部助教授から杏林大学医学部教授となり、退官後に右田病院の理事に就任していました。徹は同業の義弟を良き相談相手として頼りにしていました。そして、松本樺太の長男で大手総合卸企業を定年退職後、右田病院事務長に就いた松本宇ひろし(徹の従兄弟)が、病院内の組織改編を試みる一方、院長の右田徹は、「国の制度に則り経営をするのはもっともではあるが、あまりにもがんじがらめになると経営にとってリスクになる」と思っていました。 しかし、時代の流れには抗えません。徹らは、改編計画を練り直し、時間をかけて進めることとし、ナースステーションにてアメリカ留学時代
元のページ ../index.html#27