100年の歩み| 100年の歩み43どうにか体制の立て直しを試みます。 東京都の二次救急は、特に中小民間病院が支えているといっても過言ではありません。その内情を知っているがゆえに、過度な負荷をかけることで救急病院の数が減ることを危惧して、東京都へ見直しの意見書を提出したこともありました。 東京都が始めた休日全夜間診療事業は、救急のたらい回し対策や医療事故の改善対策が目的でしたが、従来の輪番制より人員体制や経費の負担を余儀なくされるものでした。1年365日、検査体制を含めて常設することを要件とされます。徹は、八王子救急業務連絡協議会の会長として、本事業の地域浸透のため自院の体制だけではなく、地域体制の調整に尽力します。 右田病院の建物は1960(昭和35)年の第1次増築工事から40年余り、増改築を繰り返していましたが、老朽化著しく、近代の施設基準への対応も困難で、建て替えが迫られていました。空調の未整備、水道配管の劣化、降雨時の雨漏りなど患者さんの療養環境にも支障をきたし、根本的な問題として未耐震が上がっていました。しかし、建て替えの代替用地確保は、八王子市本町の中心市街という立地から困難を極め、遅々として進みません。救急医療拡充を目指す 院長の徹は、この状況下で最低限、既存の病院の改築は必要だと思っていました。経営状態も良くない時期でしたが、ちょうど救急医療の充実を図るための補助事業があることから、第4次増改築計画が進められることになります。 病棟の最上階、4階の病室はほとんど空調が効かず、夏になると酷暑ともいえる暑さになるほど。雨の日には漏水もひどいものでした。そこで、救急医療充実のための別館建設に、併せて空調設備工事と外壁工事にも取りかかることにしました。すべては患者さんたちの療養環境の改善が目的でした。 理事会では、建て替えるべきとの意見もありましたが、建て替えのための代替地がなかなか見つからず、計画の道筋を示すことさえできずにいたのです。 それでも1999(平成11)年から2002(平成14)年にかけては、救急車搬送件数は年間2,600件から2,900件にもなり、「救急の右田」として救急医療に取り組んでいました。「保健婦助産婦看護婦法」が「保健師助産師看護師法」に改定されたことにより、2002(平成14)年3月から、それまでは女性を看護婦、男性を看護士と呼んでいましたが、男女共に「看護師」という名称に統一されました。経営逼迫の中右田徹が理事長就任し院長兼任に 右田徹は、企業勤めをしていた長男の敦之を事務職に入れ、埼玉県立がんセンターに外科医として勤務していた次男の隆之を後継者として右田病院に呼びます。 敦之は、明治大学農学部を卒業後、食品メーカーで開発業務などに従事していましたが、30歳直前に労働組合の執行委員長になりました。それまでの仕事とは畑違いの管理業務に触れ、この経験が経営に関心を持つきっかけになります。さらに、敦之は在職中に取得した中小企業診断士の資格や労働組合執行委員長の経験が生かせるかもしれないと、病院経営に就くことにしたのです。 隆之は、東北大学医学部を卒業後、研修医として3年間、東北各地の関連病院を回り、その後、東北大学医学部第一外科医局に入局して、大学病院や関連病院に勤務。1999(平成11)年に埼玉県立がんセンターに移り、消化器外科医として食道がんや胃がんを中心に手術を多く手がけていました。 次世代に向けての経営改革の基盤ができつつあっても、度重なる医療制度の改革で、病院経営の環境外来診療をする右田徹院長当時の病院内の様子。薬局(左)と売店(右)
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