右田病院100周年記念誌
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100年の歩み100年の歩み |44率化するために外来スペースのレイアウトを変更します。 また、リハビリテーション科を物理療法主体から運動療法へ転換するため、リハビリテーション科の拡張を図ります。右田病院は救急搬送を通して、もともと骨折など外傷の患者が多く、リハビリテーションの整備が急務だったためです。 このときの改装工事は、外来スペースのレイアウト変更と医事課内カルテ庫の設置、2階病棟の新規リハビリテーション科設置と内視鏡室のバックアップ病床設置、3~4階のトイレ等水回りの改装、空調設備の更なる増設など、大規模なものでした。 また、運動療法のキャリアを持つ福井幸雄(現・診療支援部長)を招聘して、右田病院のリハビリテーション科科長に就任してもらい、同科の礎を築くべく貢献していただきました。 この時期に実行したことは、あとあとに幹部の育成につながり、また病院事業のノウハウを内部留保することにつながっていきます。 郊外の丘陵地を中心にしたニュータウン建設が盛んに行われた八王子市は、年々新しい住民を迎え、人口57万人に至る首都圏有数の大都市へと変貌していました。その一方で、高齢社会の進展著しく、昭和の時代に開発されたベッドタウンは人口減少傾向に入り始めています。が著しく変化していました。そこへ「聖域なき構造改革」をスローガンにした小泉政権が進めた医療費の実質削減が、追い打ちのように右田病院の経営を厳しい局面へ追い込みました。 この時期に、1974(昭和49)年の第2次増改築工事で病院の近代化に貢献し、その後も30年近く理事長として経営を担ってきた右田佐が辞任し、2003(平成15)年3月に右田徹が院長兼任で第6代理事長に就任。同時に、常務理事のポストに長男の敦之が専任で就任。次男の隆之が副院長に就任しました。 なお、同時期に長く側面的に興和会の経営を監査してきた後藤一成(右田徹、佐の義兄)も理事を辞任しました。後藤の貢献は、創始者の興根昇も認める通り、昭和20年代から病院に経営感覚が求められていたことを示し、医療法人化や財務指導などにおいて右田病院の歴史を支えたことにあります。 後藤の意思を汲み、院長・理事長、副院長、常務理事の席を同じ部屋に設け、3人は机を並べることで意思決定を迅速にするようにします。 2000(平成12)年、右田徹は長年の救急医療における貢献を評価していただき、東京消防庁消防総監から消防行政協力賞、2004(平成16)年には特別協力賞を授与されます。リハビリ施設拡張のための第5次増改築工事 経営陣は実現できる改革から進めようと、まず業務の効率化を図ります。遅れていた業績向上の評価指標であるKPIのデータベースも構築します。各科別冊で管理されていたカルテも電子カルテ化に向けて、1患者1カルテによる診療情報の一元管理を計画しました。それに合わせて、外来の人員体制を効リハビリもまだ物理療法だけだった東京消防庁での授賞式にて(中央 右田徹)

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