右田病院100周年記念誌
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100年の歩み| 100年の歩み47診者数を伸ばし、今では乳腺外科専門医の鴨宣之先生の監修により、確定診断から治療、及び情報提供までをカバーし、本分野のハブ機能を有するようになりました。現在、手狭になったため、2020年度を目標に旧病院跡地(現・八王子市医師会隣接地)への新築移転を計画し、鴨先生が興和会理事としてクリニック副院長に就任、開設の準備を進めています。相次ぐ先代の訃報 世代交代を進めるところ、先代の訃報が相次ぎます。 2008(平成20)年5月30日、第5代理事長 右田佐(興根昇・四男)逝去、享年76。 同年7月18日、第3代理事長 右田裕(興根昇・次男)逝去、享年80。 2016(平成28)年2月2日、理事 後藤一成(興根昇・次女の夫)、享年91。ほかにも右田健次(興根昇・長男)、右田昭(興根昇・五男)、水野明(興根昇・三女の夫)らもすでに逝去しており、右田徹の実•義兄弟たちは全員いなくなりました。昭和の時代に、右田病院の運営に関わってきた功労者たちです。リストラクチュアリング 右田裕と佐が逝った2008(平成20)年度下半期に、人員整理を伴うリストラクチュアリングで経営再建を目指すことになり、経営顧問に坂本永子氏(現在・法人監事)を迎えて改革を決意しました。入院基本料のアップを図るため、上位基準を取得し、収益が出るモデルを作りました。幹部とは毎週面談を繰り返し、実際に行っている医療行為をいかに収益に結びつけていくのかを各部門で考え、委託が可能な業務は外注化するなどして、職員の理解を得ることに腐心しました。新経営陣は、中小では維持が難しいといわれ始めた「救急医療の強化」を再び目指す方針とします。右田隆之院長は、右田病院の企業文化として「救急」への理解があると感じていました。右田敦之常務理事(当時)も全国的に救急病院が数を減らす中、そこに残ることが地域医療での生き残りにつながると考えたわけです。当時の救急部長・國松範行先生の協力を仰ぎ、看護師も救急に理解のある専任メンバーを揃えて「断らない救急」を励行します。合併症を伴う高齢者救急の受け入れは、病棟看護に負担を強いることになります。それでも、我が国が今後、超高齢社会へ向かう実状から、高齢者医療への積極的な取り組みなくして病院の運営を続けることは難しくなります。このころ右田病院も救急車搬送件数が減少傾向にありました。この年、八王子市内の高齢者率は初めて人口の20%という大台に乗り、右田病院の病棟患者に対する高齢者比率は69%に達します。看護部長に就任した内田百合子の指揮の下で現場理解を進めた結果、2010(平成22)年の救急車搬送数は2,500件まで戻すことになりました。 病院の建て替え計画 リストラを実行した翌年、入院基本料の上位基準を届け出し、救急車搬送件数の増加と共に病床稼働も上がったため、2010(平成22)年にブレークイーブンを達成します。その年に、救急医療機関向けの耐震補助事業による病院耐震化建て替え用資金の補助金が創設されます。補助率が従来の補助事業より厚遇なことが、全国的に救急病院の未耐震問題の重大さを示していました。東日本大震災の前年のことでした。 乳がん検診ではマンモグラフィでの検査も

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