100年の歩み| 100年の歩み23初代・右田興根昇の時代~八王子に右田醫院開設~興根昇の生い立ち 右田病院の創設者であり、初代院長の右田興おきねのぼり根昇は、1888(明治21)年10月19日に岡村平次、たつの次男として誕生しました。生まれ育ったのは、島根県鹿足郡津和野後田村片河(1889年から津和野町)です。 津和野藩は、1786(天明6)年、8代藩主亀井矩のりたか賢のときに藩校「養老館」が創設され、人材育成に力を入れたことにより多くの優秀な人材を輩出しました。近代日本哲学の祖といわれる西にしあまね周は、養老館の儒学学科教官だった時期があり、文豪森鷗外も養老館最後の在学生として2年間通学しています。廃藩後、津和野町になった際には「教育立町」を宣言するほど、教育的な風土が根付いていました。 父・平次は、興根昇が誕生したころには、すでに眼病によって両眼を失明。母・たつは、盲目の夫を抱える貧困の中、必死で働き、苦労を重ねながらも家庭を切り盛りしたのです。たつの頑張りは、地元で尊敬の念を持って広く語り伝えられ、時を経て昭和14年発行「島根県青年学校教科書 女子巻一 郷土科」(P33参照)に、「岡村タツ子」として6ページにわたり、その生き方が掲載されました。そこには、たつが常々口にしていた言葉が出てきます。 「人に頼るな、一日五合の米しかなければその五合の米で済ますようにせよ」 「人間は働かれるだけ働かねばならぬ」 苦労しながらも弱音を吐かない、そんな母・たつの後ろ姿を追いながら、兄の實衛、姉・つねと共に興根昇は育ったのです。東京に出て医学を学ぶまで 興根昇は1902(明治35)年、13歳のころ、津和野出身で東京在住の陸軍軍医右田軍太郎の養子となります。13歳の少年にとって東京は遠い地だったはず。前年の明治34年に現在の山陽本線は神戸から下関までが開通したとはいえ、神戸から東京の新橋でさえ急行列車でおよそ17時間半もかかった時代でした。 長旅を経て上京した興根昇は、東京の右田家から神田にある錦城中学(現在の錦城学園高等学校)3年生に編入します。しかし順調に勉学に励み始めたかと思う間もなく、養父の軍太郎が翌年42歳の若さで病死してしまうのです。 そのため、軍太郎の従兄弟であり、興根昇より12歳年上だったロシア語研究者、八杉貞利氏(東京外国語大学ロシア語科教授)宅に寄宿することに学生時代の興根昇
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