100年の歩み100年の歩み |24なります。八杉氏は東京帝国大学を卒業後、1901(明治34)年にロシアに留学しましたが、1904(明治37)年に帰国していたのです。 こうして興根昇は、気鋭の学者の家庭で厳しく養育され、勉強を重ねることになります。 八杉家も、もともとは津和野藩の出で、貞利氏の父・利雄は軍医として、同郷の森鷗外の上司でもありました。森鷗外は、利雄の甥にあたる軍太郎とも親しく、『鷗外全集』第35巻にも右田軍太郎の名前が登場しています。津和野という町で育まれた地縁が興根昇の人生を導いていくのです。 興根昇は医師を目指して1909(明治42)年に仙台医学専門学校(後に東北帝国大学医学部に包摂、現在の東北大学医学部)に入学。同年の官報に「島根県士族 右田興根昇 入学試験施行ノ結果 本年9月11日ニ入学ヲ許可ス」と記載があります。 杜の都仙台で医学を修め、1912(明治45)年に、学校名が改称された東北帝国大学医学専門部を卒業しました。明治天皇が崩御され、年号が大正になった翌年のこと。若い天皇の即位によって新しい時代が開いたときでした。医師としての出発、右田ふさとの結婚 東北帝国大学医学専門部卒業後は、右田家の亡き養父・軍太郎の跡を継ぐべく陸軍の二等軍医として任官します。明治時代初期には、日本は軍医学校で医師を養成していましたが、このころは大学医学部の卒業生を公募する方式になっていました。このときの陸軍軍医総監、陸軍省医務局長は森鷗外です。ちなみに『鷗外全集』第35巻には「12月13日 右田興根昇来訪す」の記述があります。 軍医として忙しく働く最中、故軍太郎の長女・ふさと結婚。しかし、体調を崩してしまい、1917(大正6)年に森鷗外の計らいのもと、軍籍を離れることになります。右田家と森鷗外のつきあいの深さ、同郷人に対する鷗外の広き心を感じる出来事です。 しばらく療養したのち、興根昇は湯島にある順天堂医院(現在の順天堂大学医学部付属順天堂医院)泌尿器科・坂口勇門下に入局します。坂口勇先生は順天堂医院泌尿器科皮膚科創設に参加され、1912(明治45)年、日本泌尿器病学会創立にも尽力し、のちに名誉会長をされた方です。泌尿器科の名医として知られた坂口先生のもとで、興根昇は日夜、診療と勉学に励み、医師としての腕を磨いたのです。 その後、坂口先生は興根昇に、ご自身の地盤である八王子市での開業を勧めます。江戸時代に甲州街道の宿場町として発展してきた八王子は、1917(大正6)年に東京府下では東京市に次いで2番目となる市制が施行されたばかり。世界を見れば第一次世界大戦の真っ只中でしたが、日本は大戦景気に沸き、八王子の主産業である織物業界も空前の好況を迎えて、街は活気づいていたのです。 興根昇は医師になって6年目。恩師坂口先生の応援を受け、若くして訪れた独立のチャンスをつかもうと、ふさと共に八王子での開業準備を進めるのでした。八王子市大横町で独立・開業 1919(大正8)年11月23日、八王子市大横町に皮膚科・泌尿器科の診療所として「右田醫院」が開設されました。開業を進言してくれた坂口先生は、この年から6年間、日本泌尿器病学会の会長を務めています。同氏の力添えによって順天堂病院の医局員やたくさんの後援を得て、盛大な開業式を営むことができたのです。 八王子が市になったこともあり、この当時、複数名の医師たちが開業しています。同年に八王子市八日町に耳鼻科を開業した太田先生は、興根昇と同郷の従兄弟とのことですが、系譜は定かではありません。太田先生のお誘いもあって、八王子市に開業したとも医師会雑誌に記述があります。 開業に併せて同年、興根昇は八王子市・南多摩郡『鷗外全集』に出てくる右田軍太郎の名前軍服姿の興根昇
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